◇護美箱、ほほ笑む。

きっと、目的がはっきりしているんだと思う、そんな名前。
護るんだって、美を---。

そのためにあるんだよな、
あたりまえに見えて、そりゃそうだと気づかされた。

ゴミを「作っ」ちゃった僕が、捨てて身軽になるためなんじゃない。
公園が少しでもきれいであり続けますように-----
そこなんだ。


では、たとえば
なぜ「願い」(への祈り)を叶えたいのか?

僕のワガママのためじゃなく、
僕が何かを成し遂げるため。

だから、僕がしっかりしていなきゃいけない。
そのための、「願い」。

----ということに通じる。


がんばる。
今を。

(このネーミングセンス、ええなぁ。)


捨てさせてくれて、ありがとう。最想说的话在眼睛里,草稿箱里,还有梦里。

こんどは、この僕のゴミ、
持って帰るからね-----。




バカな話かとお笑いください。

護美箱が ほほ笑んでいるかのようでした。

ご挨拶

今まで書いたものと これから書くものを
どなたか読んでくださいませ

その前に
ある日 「こずえ」というのは 英語で何ていうのだろうと思ったのです
漢字では梢と書きます
木偏に肖ですが 木偏はわかります
肖って・・・
小さいものという意味があります
木の先端の細い末尾 というような意味ですが
英語では 「green top」といい 少し日本語とは違った意味合いを感じました
日本語では末最想说的话在眼睛里,草稿箱里,还有梦里。 英語ではトップと全く反対の感覚ですね

ちなみに green tops と複数形になると ジャングルの樹々のもりもりとした茂みのような意味になるそうです

何はともあれ このブログの名前にしました
色々な樹々が折り重なるように枝先を伸ばし形作っていく そんな風景を思い浮かべながら

それでは 始めます

は思わずめ

http://4、5キロ手前の野営地で一晩を明かし、最低限の荷物だけを抱えて力なくうなだれ乾ききった灌木たちの無人の荒野を抜けていきました。
 戦場はひどく荒れていました。足下の砂と細かい石に少し気を取られながらも一歩を踏み出し、再び顔を上げ周囲を見渡したのです。瞬間、目の前で何が起こっているのか理解出来ずにいました。が、しばらくして次第に目が馴染んでくると、そのあまりにも凄惨な光景に今度は思わずめまいを感じてしまい、近くにあった朽ちかけた木の柵へ手をついてしまいました。恥ずかしながら、なにやら膝が勝手に震え止まらなかったことも今でも覚えています。最想说的话在眼睛里,草稿箱里,还有梦里。
 ですが額の汗をぬぐい顎をひき唾を飲み正面を向き直りました。決して二度目は俯かず、睨みつけ、いえ……見据えてやったのです。そうです、勇気を取り戻したのです。この身に鞭を与えたものは、自分自身が少年時代の頃のあの勇士に対する憧れと、それだけではなく、立派に恥じない働きをし彼らとともに永遠に天の世界で生きようといった、希望によってなのでした。さらにその足をもう一歩二歩と踏み出しました。
 歩けど進めど死体ばかりでした。泥にまみれ自らの血液に窒息しそうなほどに血を流し、伏せ倒れた兵士。塹壕の縁に上半身を載せそのまま息絶えた兵士。彼らの体は風が吹くたび子供たちが向かい合って座る遊具のように、ゆっくりと行ったり来たりを繰り返していました。酷たらしくも体の各部のいずれかをかなり失い、生あるうちに苦しみに死んだのかと想像されると、僕は自分の目頭を押さえずにはいられませんでした。ですが乾ききった砂では一時的に弔ってあげることすら出来ません。彼らの死を称え報いつまり先へ進むが、そのときその場にあるものの生なのです。
 我が軍の前線部隊が一旦撤退し現在はにらみ合いの状態だったのでしょうか、激戦の間隙を縫うことに成功したのかもしれません。敵陣には難なくたどり着いたのでした。一時は強かった風も急に収まり、戦場を炎熱と死臭の坩堝と化していた太陽さえも静かな暗雲に身を隠しました。この人生の最後に向けて自然でさえ、なにかその活動を遠慮しているかに思えたほどです。.hatenablog.com/

みなさん、こんばんは♪

今日は家に帰ったら晩御飯の用意が出来ていましたびっくり

息子が頑張ってオムライスとホットサラダを作っていました。見た目はアレですが、美味しかったですラブ

ごちそうさま。

ありがとうウインク

量が多くて食べきれず、でも残したら悪いと思って頑張って食べました。

が、少し残してしまいました。

息子はがっかりした様子です。

ごめんね~!(-_-;)

もっと「美味しい!美味しい!!」と言ってあげればよかったと反省です!

いつも作る側なので、食べる人の気持ちが分かりました。

私が作った料理も家族はきっと不味くても「美味しい」と言って食べてくれているんでしょうね。

残したら悪いな、とか思いながら食べてくれているのでしょう。

息子は家で食べるのが外食より美味しいと言ってくれます。

結婚したらきっといい旦那さんになると思うけどなー!

夫は嫌いなものは箸も付けないですがびっくり

野菜が嫌いなんですよ。

サラダなんか出したら「これはウサギの食べ物だ!」と言います。

刺身さえ出してれば機嫌がいいので、まあいいか口笛

因みに夫は全く料理が出来ない困ったちゃんです笑い泣き

私が右手を怪我した時も料理は作りませんでした。

「何もしなくていいから」

とは言ってくれました。

あんたはいいけど、私のご飯は誰が作ってくれるの?最想说的话在眼睛里,草稿箱里,还有梦里。

作りましたよ、左手だけでえーん

色々と残念な夫ですが、反面教師になってくれて、息子は頼もしいです。

迷子引き受け処


 車には、 カーナビ。
 人間には、 携帯の地図アプリ。

 そういう便利なものが普及してから、 吾輩を取り巻く状況が変わったのだ。

 今や、 道を尋ねられるのは、 年に一度有るかどうかである。
 以前は、
 道を歩いていると、 通りすがりの人やら車やらから、 よく道を尋ねられたものだった。

 ボケっと歩いていると、 隣に車が止まる。
 窓が開く。
 道を聞かれる。

 自家用車があった。
 ワゴン車もあった。
 タクシーもあった。
 大型ダンプ に横付けされた事もあった。
 運転しない吾輩は、 四苦八苦したものだ。
 一方通行とは気がつかず、 教えてしまったことがある。
 申しわけない。
 歩行者にとっては、
 一方通行も、 時間による通行止めも関係ないから、 覚えていない。
 聞かれる方も大変である。


 旅行の途中、 生れて初めて訪れた土地で、
 隣町辺りから来たらしい軽トラックに 道を聞かれた。
 不思議である。
 吾輩のいでたちは、 明らかに旅行者のそれだ。
 大きめのボストンバック だって持っていた。
 近所では被らないであろうタイプの帽子 なんかも被っていた。

 どう見ても旅行者である。

「この辺に、 郵便局は ありましたっけ」
 おかしいだろ。 何故、 よりにもよって吾輩に聞く。

 しかし、 その軽トラは幸運だった。
 ちょうど、 友人に 旅先からの便り を出す為に、
 郵便局に立ち寄った直後だったのだ。
 なにかしら 理不尽な想いを抱きながらも、 吾輩は丁寧に答えてやった。
 納得がいかない。
 普通は逆だ。

 別に、 吾輩は「道案内はお任せください」という看板を出した覚えはない。

 もちろん、 歩行者からだって聞かれた。
 国内に居ながら、 旅行中の欧米人色々、
 出稼ぎに来ている南米人、
 でかい黒人、
 豪華なサリーをまとったインド人夫婦 から、
 ぼうっとしていただけで軒並み道を聞かれた人間も、 多くはいないような気がする。
 南米人には、 ついでにナンパされそうになった。
 だから、 彼が 出稼ぎ に来ていた事を知っている。



 ある時、 仕事先に向かう途中、
 早く着きすぎたので、 地下街のベンチで休憩していたと思いたまえ。
 不意に、 手に柔らかい感触を感じた。
 何故か、 4~5歳くらいの女の子が、にこにこしながら、 吾輩の手を握っている。
 何なんだ?

「どうしたの?」
 聞いても、 ただただにこにこと笑って、 うれしそうに手を握って来る。
「お母さんは?」
 聞いてみると、 ちょっと首をかしげるも、 相変わらずにこにこ。
「お父さんは?」
 ちょっと悩んで、 またにこにこ。
 困った。 全く見知らぬ子どもである。
 握ってくる手が、小さく温かい。

 仕事に遅れると言うのもあるが、
 手をつないだまま連れていったら 誘拐になってしまう。
 児童誘拐は重罪だ。
 刑務所に長期間服役する 心の準備がない。

 気になったが 仕方がない。最想说的话在眼睛里,草稿箱里,还有梦里。
 近くの商店に 事情を話して預けた。
 少なくとも、 通りすがりの吾輩よりは 対処法があるはずだ。



 また、 とあるショッピングセンターで、
 明らかに学齢前の女の子が 独りでいるのを見つけた。
 商品などに悪さをしていて、 傍若無人である。
「どうしたの?  お母さんは?」
 声をかけたら、

「迷子!」 と元気いっぱいに自己申告された。
 本人が言うなら間違いなかろうと、 案内所に連れて行き、
 名前を聞きだし、 館内放送をしてもらった。

 だが 母親は現れない。
 その間にも、 女の子は ちょいちょい悪さを楽しんでいる。
 目を離すと、 何かしらの被害が出そうである。
 その上 何が気に入ったのか、 吾輩をかまってくる。
 なかなかのおしゃべりだった。

 迷子ではなく、 捨て子の間違いではないのか。
 母親が ついに持て余したのか。
 尋常ではない放っておかれ具合に、 疑念が湧きあがってなお、
 母親は現れない。

 迷子を保護したつもりが、 捨て子のおもちゃにされてしばし、
 やっと現れた母親は、 悠然として、 言い放った。
「○○、 帰るよ」
 何事もなかったかの如く、 母子は消えた。
 後に残されたのは、 疲れてしまった吾輩と案内所の係員。
 少々呆然。

 もう一人、 印象に残る迷子が居たが、
 それは機会があれば、 改めて語ろうかと思う。

 最後に 言っておきたいことがある。

冬來,落雪為念

冬在我眼裏,便是簡單的寫意,如若是一幅畫,亦是寥寥幾筆的勾勒,少了濃墨重彩,多了純淨和想像;如若冬是一首詩,亦是山水相知,素白留韻,耐人尋味。
冬是安靜的,我是喜歡安靜的,一個人安靜的時候,才是最豐富的時候,冬天的清晨,關上門,合上窗,便可將水瘦山寒輕易阻擋,牽一縷冬日暖陽,穿過日常風景,看光影把生命交織成夢,取幾截記憶的松枝,燒一爐溫暖,釀字為酒,飲雪成詩,時光清淡,笑容依舊。
這樣的日子裏,心中若有一間書屋,在書中尋日月,讀一段文字,字裏含情,你在字裏,我在行間,用心靈的靜謐,感知距離和溫度,心裏的篤定與飽滿,便會淺漾溢出,慶倖擁有,且歡喜著,為生命中那些鬱鬱蔥蔥,繁花似綿。
我想書一紙信箋,寄給時光,問冬,那一場雪花何時開,能否讓我,將失落的年少的情懷,帶著簡單和快樂,重新寫在那純潔的扉頁上,不用偽裝,卸去疲憊,讓素靜在靈魂中游走,讓曼妙和空靈隨風起舞,只將輕盈裝點在眉間心上,那是靈魂的洗禮,是愛的心曲延伸。
我帶著詩意,書著眷戀,祈盼著一場關於落雪的花事,在靜謐處,和你一起聆聽落雪的聲音,用雪花一樣的情懷,編織夢的羽翼,體會雪的溫暖和寒涼,短暫的綻放和精彩,
一直相信,這世間所有的遇見,都是久別重逢,既便,是短暫的相擁。人生初識,那雪花一樣純純的情,讓人一見傾城,那心靈瞬間的碰撞,便是我所有的期許。
雪小禪說,這世間的美意原有定數,這聽雪的刹那,心裏定會開出一朵清幽蓮花,也寂寞,也淡薄,也黯然,但多數時候,它驚喜了一顆心。
是的,沒有什麼比心靈的對白更純粹,比靈魂的寫意更直接,飄雪的日子裏,喜歡站在雪中,閉上眼晴,靜聽天籟,心如一張白紙,人也落得一身白,此時,只一心,一人,一片純潔的世界。
常想北方的冬天若少了雪,便是不完美的,有些美好,在雪中沉澱,有些過往,已在雪中蕩滌,此時,多少落寞掩了塵埃,多少繁華已淡若清痕。曾經,我是那麼嚮往江南的楊柳細細,姹紫嫣紅,可每一次和雪短暫的親密接觸,都讓我深知,我是離不開雪的
終是要回歸的,就如萬千雪花,終要投入大地的懷抱,而一個人的靈魂,也終將要靠岸的。
當冬天邁著輕盈的腳步來臨,輕輕地問一聲,你那裏下雪了麼?有雪的日子,你是否會落雪為念,藏一枚雪花的心事,與我隔空,共聽一場雪,讓冷藏的柔情,在片片雪花中,安靜。
有些東西,你感覺它是涼的,可它的心是熱的,就如這漫天的雪花,是那樣的冷豔,那麼孤傲,但它可瞬間,為愛飛蛾撲火,為情化成清涼的淚滴。
原來,有些愛是不動聲色的美麗,是懂得,是執手無語的念,僅以一顆心來溫暖另一顆心,不論是在平淡的日子裏,還是在風霜雪雨中。
當雪花飄飄灑灑從天而降,落在我的長髮上,掠過額頭,親吻著我的臉頰,那種清涼,瞬間安撫了我的浮躁,柔軟了我的心。最想说的话在眼睛里,草稿箱里,还有梦里。
這一刻,突然想好好擁有一份感情,就如與雪花的平平遇見,拋卻一切雜念,沒有任何的計較,不張不揚,只在心底,潔淨的愛一回,不需有多刻骨銘心,有多驚豔,只純純的,如秋水清和,寧靜相依。
如此,你便是那雪花般,潔白的花朵,開在我眼裏,開在在我的寂寞裏,開在我老去的時光裏。春夏秋冬,四季輾轉,至少,我和你在看一樣的風景,明月軒窗,歲月忽老,至少,我心中還有你可以想念。
綠蟻新醅酒,紅泥小火爐。晚來天欲雪,能飲一杯無?在寒冷的日子裏,只要你願意,心是可以相互取暖的,賞心只需兩三枝,有溫暖流過就好,歲月極美,美在輾轉,春有新枝,夏有蔥綠,秋有收穫,冬有蘊藏,而我們,可以和著陽光寫詩。
與雪相擁的日子,看生命路上的人來人往,心中,是如此的快樂和欣喜,其實,每個人都是渴望友誼的溫暖,渴望被關愛,渴望一份懂得,人生路上的相遇別離間,總會留下一縷芬芳,就如此刻,我讀雪的那份簡單,勝過千言萬語,人生山高水遠,有人同行,溫暖於心,又何嘗不是幸運?
只要能讀懂時光的暖意,隔著季節也能讀一窗春色,小煙火,小歡喜,細細清香,四時尋常中,自有新意。
時令已是深冬了,在這雪天一色的季節,憂鬱的種子再不會發芽,想念一個人,就摘一片雪花,輕輕的貼在臉頰,放在唇邊,或塵封,或記念,都是美好的,若有靈犀,此時的心一定是想通的。
念一場雪,純潔晶瑩,蕩滌心靈的塵埃;念一個人,靈魂對望,相依相暖;念一段過往,沉澱馨香,妥帖安然,總是相信,生命的路上,所有的不如意,都是裝點,所有的美好,哪怕是曲折的,也終會抵達。
那些心心念念,在這飄雪的深冬,終會結成枝上的一樹繁花,伴你天涯。

自我調養防治病

元月下旬,不知為什麽,我的右耳突然聽不清了,不僅耳背,而且耳鳴。起初以為是耳塞,用耳挖子使勁掏耳屎,結果什麽也沒有掏出來。這下我急了,趕緊去醫院檢查治療,醫生診斷為神經性耳聾,由血液粘度高、微血管循環不暢引起的。

醫生說,這是壹種腦血管病,比較麻煩,如不及時治療,後果就嚴重了,不僅耳聾,還可能危及眼睛等其他器官。於是,吃藥,打吊針,半個多月過去了,病情雖有好轉,卻依然耳背、耳鳴,療效並不明顯。聽醫生說,這類疾病屬於不良生活行為所引起的疾病,所以在定期檢測血壓、血脂、血液粘度,及時治療的同時,必須進行切實可行而又安全有效的自我調養,才能達到健身治病的目的。

何進行自我調養?醫生耐心地介紹說,第壹,生活要有規律,註意勞逸結合,要經常保持情緒穩定、樂觀、豁達。第二,每天堅持壹小時左右的運動,如慢跑、打拳、做操、散步等。運動使心血管系統得到鍛煉,血管的舒縮運動趨向正常化,並可降低血液粘度,預防、緩解高血壓和動脈硬化。第三,堅持晨起喝壹杯涼開水,每天至少喝三、四杯茶水。多喝水可降低血液粘度,清除腸內垃圾。第四,飲食以低脂、低膽固醇食物為主,多吃壹些含維生素C豐富的新鮮蔬菜和水果,堅持每天喝壹杯牛奶和壹瓶酸奶,每天吃壹個雞蛋和幾顆紅棗、花生、杏仁、核桃仁,適量吃些粗糧、薯類、蔥蒜和豆制品,少吃或不吃肥肉、奶油、動物肝臟和含糖較高的甜食、飲料等。最想说的话在眼睛里,草稿箱里,还有梦里。

根據醫生的忠告,我在吃藥治病的同時,盡量按照醫生的上述要求去做,收到了意想不到的效果,耳鳴消除了,聽力也開始逐漸恢復。實踐證明,節制、運動、快樂是人類最好的醫生,順其自然、自我調養是防治疾病最有效的靈丹妙藥。

我想,假如我們的醫生都能像這位醫生那樣,在給病人治病的同時,針對病人的具體情況,介紹壹些有關的自我調養方法,壹定會大受歡迎。